ぼくは鈍い人だと思っていたけれど、実はかなり気にする人だったのかもしれません
踊り場からの再起動 #39|弱かったのではなく、周りを見すぎる反応が少しずつ積み上がっていたのかもしれないと気づいた夜の話です。
「ルクさんは周りに配慮するタイプに見えます」
そう言われたとき、
ぼくは少し驚きました。
自分では、
ずっと逆だと思っていたからです。
これは、
「ぼくは繊細です」という話ではありません。
ぼくは弱かったわけではなく、
周りを見すぎる人になっていただけだったのかもしれません。
自分はこういう人間だ、
とずっと思ってきたことが、
いま少し変わり始めている。
その、途中の記録です。
最近、ある人と夜に話していたとき、
ぼくは不意に、自分の見え方が少し変わりました。
休みに入った話をしていた流れで、
その人がこんなことを言ってくれました。
周りにすごく配慮できる人ほど、
自分への気遣いが後回しになって、
結果としてしんどくなってしまうことがある。
しかも、
そういう人は、
やさしくて、かなり繊細なことが多い。
その言葉を聞いたとき、
ぼくは少し引っかかりました。
というのも、
ぼくは自分のことを、
あまり繊細な人間だと思ってこなかったからです。
むしろ逆でした。
雑だし、
勢いで動くし、
深く考えずに「えい」とやってしまうことも多い。
だから、
「ぼくは繊細な人かもしれませんね」
と言われても、
最初はピンと来ませんでした。
でも、
話しているうちに、
思い当たることがいくつも出てきたのです。
ぼくは「気にしない側の人間」だと思っていました
いちばんわかりやすかったのは、
ニンジャハウスでの生活を考えていたときの自分です。
短い期間とはいえ、
人と一緒に過ごす。
そう思ったとき、
ぼくはかなり細かいことを考えていました。
生活音が響かないほうがいいだろうか。
自分の私物は、
どこまで共有スペースに置いていいのだろうか。
相手はどれくらい気にするだろうか。
ぼくは、
そういうことを頭の中でシミュレーションしていました。
でも相手は、
そんなに気にしなくて大丈夫です、
という感じでした。
その落差で、
はっとしました。
ああ、
これ、けっこう気にしているな。
ぼくはずっと、
自分は雑で、
気にしないタイプだと思っていました。
部屋も片づけない。
細かいことも気にしない。
空気を読むより、
自分のまま動いてしまう。
そういう自己認識がありました。
でも今のぼくは、
思っていたよりずっと、
周りの反応を見ています。
相手の表情。
言い方の温度。
場の空気。
自分が出しすぎていないか。
邪魔になっていないか。
負担をかけていないか。
気づけば、
そういうものをかなり拾っています。
昔からそうだったというより、少しずつ身についた反応なのかもしれません
ここでおもしろかったのは、
「ぼくはもともと繊細な人でした」
という話では、あまりしっくり来ないことでした。
ぼくは長いこと、
自分は気にしない側の人間だと思っていました。
でも振り返ってみると、
少し違うのかもしれません。
学生の頃から、
人間関係で少し傷ついたり、
空気を読みすぎたりしたことはあったと思います。
そのときどきでは、
そこまで大きな特徴だとは思っていませんでした。
でも今思うと、
目立たない形で、
少しずつ周りを見る反応は積み上がっていたのかもしれません。
だから今回の感覚は、
昔からずっと隠れていた本質を見つけた、
というよりは、
生きていく中で少しずつ身についた反応を見つけた、
というほうが近い気がしています。
その反応は、強みにもなっていました
仕事の中でも、
周りの空気を読む力は、
たしかに役に立っていました。
困っている人の話を聞いて、
何が事実で、
何が思い込みで、
どこを整えればよいのかを考える。
先回りして、
段取りを整える。
場がこじれないように、
少し早めに手を打つ。
そういうことは、
ぼくの強みでもあったと思います。
だから、
この性質を全部悪いものとして片づけたくはありません。
実際、
周りに気を配れることや、
違和感を拾えることは、
ぼくの武器でもあります。
でも、自分に矛先が向くと急にしんどくなりました
その一方で、
矛先が仕事そのものではなく、
自分自身に向いてくると、
その力は急にしんどいものにもなりました。
相手はそこまでのつもりではないのかもしれない。
でもぼくには、
人間性まで否定されたように感じてしまう。
そうなると、
急に顔色をうかがうモードが強くなって、
遠慮して、
回避して、
どんどん動けなくなっていく。
潤滑油になっていたはずの配慮が、
逆に錆びつきの原因になる。
たぶん、
ぼくの中ではそういうことが起きていました。
弱かった、
というより、
周りを見すぎる反応が、
あるところから自分を守るより先に、
自分を削るほうへ回り始めていた。
今はそんな見え方をしています。
ある時期の生活が、そのアンテナを上げすぎたのかもしれません
さらに振り返ると、
この反応が強くなった背景には、
以前の家庭生活の影響もあった気がしています。
日々の暮らしの中で、
注意されないように先回りする。
何か言われる前に、
空気を読む。
相手がどこを気にするかを想像して、
少し緊張しながら動く。
そういう時間が長く続くと、
繊細さというより、
アンテナの感度そのものが上がりすぎていきます。
それは自分を守るための反応でもあったのだと思います。
だから、
全部が悪かったとは思いません。
でも、
防御反応として身についたものが強くなりすぎると、
今度は自分がすり減っていきます。
ぼくがしんどくなった理由のひとつには、
この「気づきすぎる力」が、
周りにはとても向いているのに、
自分に対しては、配慮してあげられなかったこともあったのかもしれません。
今このタイミングで気づけたのは、少し回復してきたからだと思います
もし休みに入ってすぐの頃だったら、
ぼくはこの話を、
たぶんもっと重く受け取っていたと思います。
やっぱり自分は弱いのかもしれない。
だからしんどくなったのかもしれない。
そんなふうに、
自分を責める方向に寄っていた気がします。
でも今は、
少し違います。
最近のぼくは、
ようやく自分の状態を、
少し離れて見られる時間が増えてきました。
だから今回も、
「ああ、そうだったのか」
と、少し腑に落ちる感じで受け取れました。
これは弱さの発見というより、
説明のつかなかったしんどさに、
言葉がつき始めた感覚に近いです。
しかも今回の気づきは、
自分ひとりで考えていて出たものではありませんでした。
オフラインで誰かと話して、
その人の見え方を借りたからこそ、
自分の反応が少し立体的に見えました。
自分の中だけでぐるぐるしていると、
弱さにしか見えなかったものが、
人を通すと別の輪郭で見えてくる。
ぼくにとって今回は、
そういう夜でした。
繊細さを消すのではなく、鈍感力を足していきたいです
今回の気づきで、
ぼくは少し楽になりました。
周りを気にしすぎてしまうのは、
ただ弱いからではなく、
長い時間をかけて身についた反応でもあったのかもしれない。
そう思えたからです。
しかもそれは、
全部捨てるべきものでもありません。
配慮できること。
気配りができること。
違和感を拾えること。
それ自体は、
ぼくの武器でもあります。
ただ、
それだけで生きると、
主体性がない場面では簡単に飲み込まれてしまう。
自分はどうしたいのかが薄いまま、
配慮だけが強くなると、
遠慮と回避ばかりが増えていく。
だからこれから必要なのは、
繊細さをゼロにすることではなく、
そこに少し鈍感力を足していくことなのだと思います。
気にしない力。
全部を拾わない力。
自分の道を少し優先する力。
そういうものを、
今からでも練習していけるのかもしれません。
もし後から身についた反応なら、
後から少しずつ調整していくことも、
たぶんできるはずです。
まだ答えは出ていません。
でも、
ぼくは最初からそういう人間だった、
と決めつけるより、
ここまでの人生で身につけてきた反応なのかもしれない、
と見るほうが、
今のぼくには少しやさしいです。
そして同時に、
これから変えていける余地も残してくれます。
もし最近、
自分は弱いだけなのではないかと感じている人がいたら、
それは性格の欠点ではなく、
長く周りを見て生きてきた結果かもしれません。
その力は、
武器にもなります。
ただ、
自分を削るところまで行ってしまう前に、
少しだけ鈍感でいる練習も必要なのだと思います。
ぼくも、
これからそこを試していきます。
再起動というのは、
新しい自分になることではなく、
長いこと見落としていた自分に、
少しずつ気づいていくことなのかもしれません。




繊細さを消すのではなく
鈍感力を足す
とても響きました!!
どうもありがとうございます😊
自分を否定しせず、今の自分はいつでも受け入れていく。。。そんな風に読んでいて感じました!
私も、今の自分を否定せず見つめてあげる時間を作ろうと思いました!